教育への思い・
代表者のこれまでの歩み
―「学ぶことが、生きる支えになる」という原体験から
これまでの人生で、私は幸運にも、敬愛してやまない師匠たちから直接指導を受け、学ぶこと自体の愉悦、喜びを教わってきました。教育に携わり続けてきた私の原点はそこにあります。
もともと思い悩みやすい傾向のある私は、高校時代、自意識をごりごりにこじらせて不登校でした。家に引きこもり、本や映画、音楽に埋没することで、現実から逃げ続けていました。
そんな捨て鉢の私を気にかけ、何度も自宅を訪ね、親身になって支えてくださったのが、当時の学級担任だった川上浩先生です。国語教諭だった川上先生は、後に宮崎県内随一の進学校である大宮高校の校長を務められることになるのですが、当時からすでに、武田鉄矢も裸足で逃げ出すほどの熱血ぶりでした。そして同時に、哲学や芸術などにも広く精通されていました。川上先生は、ヒッキーな私をたまに車で外へ連れ出してくれ、伊崎鼻という美しい岬の突端などを一緒にぶらぶら散策し、陽光をぴかぴかと反射させる日向灘に目を細めながら、いろんな話をしてくれました。今思うとあれは、古代ギリシアのペリパトスのようでした。先生との対話を通じて、私は少しずつ、自分を囲う暗澹たる現状の外側に、知の世界っぽいものを感じた気がして、いくばくかの希望も生まれました。高校を反則ギリギリの裏技で何とか卒業し、福岡で1年浪人して大学へ進むことができました。
大学で私はまた、新たな幸運を引き当てます。渥美東洋先生との出会いです。博覧強記という言葉がこれほど似つかわしい人物もそうそういないでしょう。底知れぬ深い教養に裏打ちされた鋼の知性、刑事訴訟法界の重鎮、英米法の雄です。賢者の威風をたたえる東洋先生は、多くの学生から畏れられていましたが、こちとら山出しのおのぼりさん、犬のように尻尾を振り、恭順の体で渥美ゼミの門を叩いて、見事弟子入りを果たしました。東洋先生の下で学ぶことの知的興奮は甚だしく、親のすねをかじりにかじって大学院まで進むことになりました。
私の研究テーマは「脳死と臓器移植」。
「死とは定義しうるのか」「先進医療技術が人間的価値へ踏み込んでくる時、我々の社会にはどのようなオルタナティブがあるのか」といった問いを軸に、生命倫理の社会課題を具体的に考え続けることになります。その道すがら、下に挙げた研究者の著作や学説からは、いたく感銘を受けました。「~ ~」が、それぞれの本の主張で私が影響を受けた箇所を端的にまとめたものです。
- イマヌエル・カント『純粋理性批判』~理性は嘘をつく。理性が通じない領域がある~
- 内田樹『ためらいの倫理学』~自分は間違っているかもしれないと考える知性のほうが強い~
- H.L.A.ハート『法の概念』~法は道徳ではない、権力者の命令でもない。ルールの相互言及だ~
- クロード・レヴィ=ストロース『親族の基本構造』~未開地域の原住民のほうが欧米人より賢い~
- 養老孟司『唯脳論』~世界は脳だけである。脳は脳の構造で世界を見ている~
これらの学術書は一様に、読者の常識的発想や平凡な推測を180度覆しにかかってきます。暴論とも思えるような主張を繰り出しやがります。トンデモ仮説を、緻密な論理と実証で組み上げていき、読む者は皆、一見荒唐無稽な彼らの説に、仕方なく納得するしかないという代物です。ご興味のある方はぜひご一読ください。ちなみに、カントとハートは日本語訳で読んでも全くわからないです。
大学院では、副査としてなんと、人類学・宗教学の大家である中沢新一先生にもご指導いただくことに。この贅沢さを喩えるにはどうすればいいのでしょう。大谷翔平から直接野球を教わり、ボクシングを井上尚弥に習うようなもんです。学問の奥深さへ、さらに惹き込まれていきました。
書き上げた私の修士論文は、上記の天才たちを猿真似して、突飛な結論に至ります。「死とは、その民族集団が継続的反復的に受容している『型(パターン)』の中にしかない。民族によってそのパターンはばらばらであり、画一的な死の定義は不可能。よって脳死は人の死と断定できない。実際、日本では脳死移植が合法ながら全く実施数が増えない。おそらく今後も増えない。なぜなら日本人の『死のパターン』には脳死が当てはまらないから」
これは、英米法の白眉とも言える組織犯罪取締法、通称「RICO法」の犯罪構成要件ロジックを、文化人類学の論法にねじこんだ力業でした。日常言語学派ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」概念を、H.L.A.ハートが法哲学の領域に持ち込み「第一次ルールと第二次ルールのセットが法だ」と説いたことのまるきりな模倣です。ひよっこのつま先立ちな背伸びでした。レヴィ=ストロースがアボリジニの複雑な婚姻規則を、数学の群論を用いて説明し、世間を驚かせたように「俺もすごい論法作ってやったぜ、へへ」と自己陶酔でにやにやしておりました。
英米法の泰斗、東洋先生から教わったRICO法と、レヴィ=ストロースの信奉者を自認する中沢先生より学んだ構造主義人類学を修士課程ごときが魔改造で作り上げたお粗末論文。けれどもあの中沢先生に好評価を頂き、修了式後の謝恩会にて「就職しないで研究続けなよ」と、そっと耳打ちされたことは、わが生涯における数少ない栄誉の中でも、燦然と光り輝く、貴重なメダリオンとなりました。
修士課程修了後は、日本経済新聞社に記者として入社し、大阪社会部の遊軍(=なんでも屋・突発事件即応班)に配属されました。新米記者として取材、記事執筆、先輩のパシリ、上司の奴隷と、多忙な日々を送ることになります。タクシーチケットをいくらでも自由に使えるという一点については後ろ髪をひかれたものの、やはり研究者になる夢を捨てきれず、同社を辞して大学院へ舞い戻ることにしました。
そうやって、再び象牙の塔へ籠ったのはいいけれども、すぐに落とし穴にはまります。もともと悪かった視力がさらに低下し、たくさんの文献を渉猟することが次第に困難になっていったのです。それに加え、生活そのものの経済的苦しさにも直面し、悩んだ末、30歳を機に学究の道を断念することにしました。
その後、アルバイト講師として勤務していた明光義塾に教室長として就職。現在に至るまで、一貫して塾業界で生徒指導に精を出すことになります。生徒への直接の指導だけでなく、講師の育成や教室運営に携わる中で、私は「受験に合格するための知識」以外のものも伝えたい、伝わってほしい、と思い続け、たまに、いやもう勝手に伝えてしまおうと長口舌をふるったりしてきました。
師匠たちから、私が勝手に受け取った教えはこうしたものでした。
- 倫理性や価値への問いかけなしに、学問は成り立たない
- 多くの異なる事象の間で、その本質は相似性・対称性を帯びている
- 周囲の空気に流されるな、自分の頭で考えよ
- 自身の思想と行動を一致させるよう努めなさい
折々のタイミングで、こうしたことを、できるだけかみ砕いて生徒たちへ熱く語りかけています。
そうこうしているうちに、時は水洗トイレのように流れていき、不惑の40歳を目前にする頃、視力の悪化はさらに深刻さの度合いを増しました。眼鏡やコンタクトレンズ装用も、手術も、およそどんな方法でも視力矯正ができない「レーベル病」と診断され、視覚障害者手帳の交付を受けることに。
さらにその後、長女が3歳半で病没するという出来事を経験します。愛娘の死を契機として、妻との関係にも亀裂が生じ、溝が埋まらないまま妻は2歳になったばかりの長男を連れて家を出てしまいました。それから、息子と月1回の面会が叶うまでには、さらに2年の歳月を要しました。試練が重なる時期でした。希死念慮が波のように繰り返し襲ってきました。得度して高野山で仏道修行に入ろう、お大師様の下で娘の菩提を弔っていこうとも考えました。
それでも、完全に打ちひしがれることなく、何とか前を向いて生きてこられたのは、読みふけってきた本から得た学びに支えられていたからだと思っています。私に降りかかった災難なんて、ちっぽけで、マックロクロスケくらいに可愛いよ、と思えるような、苛烈な運命や絶望に耐え、人類史に確固たる業績を残した偉人は古今東西に多く存在します。どん底の私を、仏典の教えや、ニーチェの「永劫回帰」思想が救ってくれました。
眼病によって紙の本を読むことは難しくなりましたが、現在はAudibleなど音声読み上げサービスもあり、さまざまな書籍に触れ続けることができます。本からは引き続き、生きていくための多くのヒントを受け取ることができています。
教育や学びには、志望校合格を果たすため、資格を得るため、金銭や地位や名誉を人より可能な限り多く獲得して「勝者!フォーーー!」と歓喜するため以上の意味があると、私は考えています。
学びによって世界はどこまでも広がります。
豊かな教養は、人生の壁にぶち当たった際、それを乗り越える手がかりをくれます。
そして、本音では亡き長女に直接授けたかった中学受験という学びの機会を、自らのこうした思い入れたっぷりに地域の子どもたちへ届けようと独立しました。この事業は私にとって、娘を悼む鎮魂の祈りなのかもしれません。あるいは、ふらふらとあてどなく彷徨うばかりな、私自身の未熟な父性の、かりそめの着地点なのかもしれません。
視覚障害によって、対面で長時間指導することには制約があります。しかし、その制約があったからこそ、オンライン指導&月1自宅訪問という新しい可能性にも気付くことができました。色んな事情で塾へ通いにくいお子様を、遠隔でサポートできるようになりました。制約と誓約です。緋の目クラピカです。ウボォーギンもワンパンです。
自らの人生を振り返ると、順風満帆だったとは到底言えません。鷹の団にいた頃のガッツのように、黄金時代はほんの刹那だったような気もします。病気のせいで私の視野は大きく失われましたが、学びによって精神の視野は広がり続けています。教養という武器によって、人生の困難は乗り越えていくことができる。はずです。
